京都へ
写真のレトロな看板?は京福電鉄・御室駅です。この看板を背に北へ向かうと仁和寺です。この辺りには私の出身校、御室小学校があり、とても懐かしい場所。歩き回って疲れました。この続きは明日ね‥
写真のレトロな看板?は京福電鉄・御室駅です。この看板を背に北へ向かうと仁和寺です。この辺りには私の出身校、御室小学校があり、とても懐かしい場所。歩き回って疲れました。この続きは明日ね‥
お菓子甘泉堂銘「都をどり」
針金の師匠、林雄三さんが京都で個展をやっていたので、自作を持って、講評をしてもらいに行きました。
一瞥して、「俺がつくったのと変わんねぇじゃん」と言っていた師匠ですが、よーく見ているうちに、
「触ってたら、直してしまいそうだよなぁ」。
と、丁寧な解説付きで、手ほどきを。
なんだなんだ、やっぱり、弟子は弟子(は私です)の出来なんだ、と思いながらも有難く受講 ? してきました。
せっかくの京都なので、師匠の用事にくっついて、祇園のAvec TAROへ。
ここは京都のブティック(もう死語かなぁ‥わかります? )の草分け的な(帽子とお洋服の)お店です。
Avec TAROの天才的販売員ミヨコさんも一緒にゴハンを食べに行こう、ということになりました。
「う〜ん、安うて美味しい店 ? そや、あそこにしよ」とミヨコさん。
ニット作家の山田さきこさんも合流して移動中、通り掛かった「いづ重」前で、
「ここのお稲荷さん、おいしいえぇ。「ぷちっ」が入ってるし」とミヨコさん。
この場合、即、買いです、私。
おいしそうでしょ。
因みに「ぷちっ」は「おのみ」です。そういえば、おのみ不在の、いなり寿司多し。
↑これは「いづ重」の入り口にあった火災守護の松明 (の燃えかす)。
祇園祭、神輿洗の松明で、御神輿が通る道を大松明で清めるのだとか。
ちらっと見える粽といい、この使用済み ! 松明といい、んんん何気に京都っぽい。
で、ミヨコさんが案内してくださったお店はココ「かね正」
↓この路地(京都の人はロオジという)の奥にある鰻屋さんです。
ミヨコさん : 「知らんかぁ、ここは鰻茶漬けが有名えぇ」
けれど、錦糸丼など、にしました。
カウンターの中の炉で目の前で焼いてくれます。
(肝が、おーいしかった。次回は鰻茶漬けにしよう‥)
祇園で生まれ育ったミヨコさんと「かね正」のコウスケ君(海老蔵ファンの美青年! )の会話が、部外者の我々には面白く、
どこどこの舞妓ちゃん、別嬪さん‥、
もう、「都をどり」、行かはった ?
とか、その他ディープな祇園の小咄など、楽しませてもらいました。
この「祇園が庭」の御二人のよると、「都をどり」は必見だそう。
「そんなん、お座敷に呼んだら、数万円の芸が、オーケストラ付き、お茶・お皿付きで4300円やし。地方(じかた、と読み、囃子方のこと)も「都をどり」は生(なま)えぇ。」
ヨイヤサアの掛け声ではじまる一糸乱れぬ総踊りが見ものです。
芸舞妓がずらっと並ぶ総踊り、通の御二人の話では、中にオヘチャさんが混じるのが、また、いいのだとか。
コウスケ君は「オヘチャさんがいはらへんかったら、寂しい、さみしい。」と言ってました。
そんなもんですかねー
長い間、私も行ってませんけれど、「都をどり」のお皿は大切に普段使いの菓子皿にしています。
これまた、祇園の多くの料理屋では、この季節にだけ、お客さまに出すために、「都をどり」のお皿を数十枚単位で手元に置いているのだそうです。
「ウチ(その料理屋さんのコト)は、これだけ(お皿の枚数分だけ)都をどりに行ってますえ〜、ということやし」とは、ミヨコさんの弁でした。
ふむ、ふぅむ、花街の春でした。
「ナンにもあらへんけど、朝堀りの筍、どうぞ」とAvec TAROでゴハンに行く前に出してくれた、ミヨコさんお手製の「虫養ひ」
おおきに、美味しおした。
都をどり
京都・祇園甲部歌舞練場 4月末まで
**MOLESKIN 京都版、来年発売予定ですって。
この看板、通るたびに気になります。
木枠の扉にレトロなガラス。
ガーデンの上にアパートの文字。
ガラスのドア越しに内部がすこーし見えるのですが、住み心地もよさそうです。
よほど、ドアを押して、空き部屋があるのか、聞いてみたい衝動に駆られます。
もし、感じのいい大家さんか管理人の方が出てきて、あ、一部屋あいてますよ。なんていわれたら・・そして、お部屋をみせてもらって、とても気に入ったら、どうしよう、なんて夢想してしまうのです。
最近、とみにコンパクトな暮らしに憧れていて、こんなお部屋でこざっぱりと必要最低限のものだけで生活できたら、どんなにすぅーとするかしら・・と手に余るもののなかでの暮らしを疎ましく思います。
いちばんの憧れは平家。離れのようなちいさな日本家屋ですっきり暮らしたい。
居間と台所の他は書斎か応接間にできるような予備の部屋がひとつだけ。
いいなぁ〜と、夢想は際限なく続きます。
応接間なんて最近あまりみないのですが、考えると便利なものですね。
少々居間を取り散らかしていても客間があれば大丈夫だもの。
いつから、応接間あるいは客間とよばれる部屋がなくなってしまったのか・・
たぶん、団地ができた頃からでしょうか。
縁側や玄関の間で祖母が近所の人たちとおしゃべりしたり、お客さまのおあいてをしていたのを懐かしく思い起します。
そこだけは洋間だった応接間。そして縁側や お玄関。
日本の家からいつの間にか消えてしまいつつあるそれらが、じつはしっかり機能していたのだ、といまさらながら気付くのです。
理想的な平家。まわりはどんどん建て変わるのに、このおうちだけはそのまんま。